昭和48年12月01日 月次祭
腹立てば、心の鏡の曇ることと。腹を立てると、心の鏡が曇ると。腹は立てまいと思うけれども、腹が立つ。見るもの、聞くもの、もう一切が腹の立つものにばっかり見える。これでは、やはり、おかげの頂き様はないと思うです。心が暗い、心が暗いと、何を見ても聞いても、やはり、益々、心が暗くなってくる。自分だけなら、それで良いですけれども、自分の周囲の人までも、その暗い心やら、イライラやら、腹立たしいやらと言った様なものが移っていく。
今日、ある婦人の方が、お参りしてきてから、とにかく、主人が連れないとこう言う。ところが、ちょうど、ここでお取次ぎが、幾らも、つかえておりましたから、御理解のほうを先に聞かせていただいておる内にです。主人が連れないのではない。自分が連れないのだと。うちの主人の心が小さい、小さいと思うておったら、自分の心が小さいことに気がついたと言うのです。もう、本当に、主人に、もうこの場で、お詫びしなきゃ相すまん。ここ二三日間、私の心が小さい。
もう、主人が心が小さいとばかり思うておった。ところが自分自身が、心が小さい自分であるという事が分からせて頂いたら、主人にお詫びをしなければと言う心が起こってきたと言うて、お願いがお礼になって、帰られたと言う方がございました。本当に自分の心の貧しさが、相手が分からんとか、相手が小さいとか、という様に思い込んで悩んでおるような場合がございますですね。改めて、天地日月の心になること肝要だと言う信心がです。本当に、頂けなければいけないと言う事になります。
自分だけがいらいらしておる。自分だけが腹立たしい。自分だけが真っ暗い心だと、こう思っとったところが、自分の周囲の者も、やはりそういう思いをさせておったと言う事になる。信心とは自分を中心とする、自分の周囲に一つの光をもたらす、そういう働きをするのが宗教心だと、こう思うのですけれども。それとは反対のことになったんでは、おかげにならん。先ずは自分が助からなければならないなと。もうあれが分からん、あの人が分からんじゃない。結局は自分自身が分からんのだと言う事です。
それが天地日月の心になること肝要と言われる、そ、肝要なところを、ちゃんと忘れておる。最近ここ五六日ですか、なんかもう心、心と言う事ばかりを、皆さんが言われる。私もその心と言う事を申します。金光様か、お書き下げを頂いておる。あ心と言う字の、あれ以、本当、こう言、優雅な心。すんなりとした心。こういう心になったら、例えばそこ、心の貧しい人があっても、その心に触れた時、心が和んだり、豊かになるだろう。暗い心の人が、明るうなるだろうと思われるようなおかげを頂きたい。
人間の幸福は、もう心にあるのだ。お商売を始めたいと言う人が、資本は無くても、例えば、心に中心を持って、心に焦点が持っていけれる信心を体得したら、もう必ず資本はなくても、商売が開かれる。結婚したいともうおかげで、給料もこれだけ、家もこんなに立派な家がある健康でもある。なるほどそれで、例えば幸せな結婚生活が約束されると言う事はない。これは例えばほんなら、嫁さんなら嫁さんがそれとは反対の、いうならば人であったりしたら。
もうそこに金があっても、ものがあっても給料は取っておっても、生活力は持っておっても、それで幸せと言う事ではない。けれども、例えばもう一切を、自分の心へ持ってくる。例えば今申しますような、なるほど人間ですから、腹立たしいこともある。相手が小さい相手が分からん、そういう時に自分が分からなかったり、自分の心が小さかったんだと気付かせて頂くと言う様な心の状態、この心が開けてこの心を、いよいよいわば心に始まって心に終わっていく。
言うならば和賀心に始まって、和賀心に終わっていくのが、御道の信心だと私は思うんですけれども。どのような場合でも和賀心という答えが、出していけると言う確信が持てたら、もうあなたは資本はなくても、商売を始めたいなら初めても良いですよと。結婚したいなら、もういつでもお許しが出るでしょうと言う事になるのです。どんなに条件が、例えば、周囲の条件が揃うておってもです。例えばもし資本金が出来ました、もう店も見つかりました。
だから開店いたしますと言うても、条件が揃うておってもです。それでは心もとない。いうなら親がおるならば、今神様がご覧になるならば、それは心もとないことであろう。けれども、その心というものがです、もう、一切が心にあるんだと。一切どのような場合であっても、和賀心と言う答えを出していく稽古をさせて頂く事に、信心の眼目が置かれておる。生活の信条が、そこに置かれてあるとするならばです、神様がもうあの氏子は、どこに出しても大丈夫と言う事になる。
神様が安心してくださる。その安心が自分の心に、安心となって帰ってくる。その安心がおかげを受けるのである。ですからもう何が何でも、やはり心に絞らせてもらう。おかげを頂かなければいけない。そこでですなかなか、まぁ心心と申しましても、本当に和賀心になりたいと思いましてもです。やはり精進しなければ出来ません。今日お昼にちょうど、一時ごろでしたでしょうか。
北野の中村さんが、お参りになった。もう先生が医者にゃかからんでん、医者に手術をして目が開くことも大事だけれども、命のほうが大事ばいち言われたから、こうらもう目は手術してみえるごつなったら、命のほうが無かちいう様なこつかも知れんから、もう手術のほうを止めちから、一生懸命に一心にお縋りしようち。そこで、御神米をたぎらかして、お湯にして、それを、目で、こうやって、こう、ホウ酸で目を洗うようにしてしよる。ところが先生、かえって見えんごつなってきよるち言うわけです。
先生どうでん、まぁ生きておる限り、目が見えんなら不自由だから、一つまぁ両方とは申しませんから、片一方だけでも良いから、まちっと見えるごと、おかげを頂きたいと、こう言うのです。そんで私が申しました。もうそればってん段々と薄うなっていきよるなら、見えんごつなるに違いなかけんで、メクラになる稽古ばいっちょせんのち、私が言うた。そしたら妙な顔してから見よりなさった。
そりけんね、いっちょもう暇のある限り、目を瞑りなさいと。もうお店で店番しとるくらいらば誰かコトンち、誰か来たごたる時だけ目ば開けなさい。そのあいだはじっと、目を瞑っときなさい。もう先生があげなこつばっかり言うちから、ち言うちからもうその、言われますもん。けれどもね、私も時々あの目が見えんごつなった時の稽古をする。こけ誰もお参りがなかったりしておると、自分でつくねんとしとくよりも、じっと目を瞑って、ははぁ目が見えないと言う事は、こんなに不自由なもんばいなと。
何でもそこにあるものを、こう手探りして取ってみたり、はぁ手探りでこれは何ばいなと言う事がそのしよる。そうして行きよるうちに、中村さん本当に眼がみえると言う事の有難さがしみじみ、込み上げてくるように有難うなるばいち、私が申しました。それはね、信心は悟りと言われておる。だから目がどうぞ、まちっと見えるごとなると言う、例えば願い出の人にです。もうあんたそん薄うなりよるなら、メクラになる稽古ばせんのち言うなら、腹も立とうごとあろうけれどもです。
そこでもうメクラになった時の稽古をせろと言う事は、もう暇のある限り目を瞑っときなさい。そして、言うなら、手探りで、便所にでん、いっちょ、行ってみなさいち。そして、もういよいよ何かの時だけ、目を開けてそこにもし、喜びが湧くならばです。今まで、永年の間見せて頂いておった、もう目だけではない。聞こえておる事も、見えておる事ももう一切が、そこから有難いものを引き出す働きが生れて来はせんかと思うて、私は話しよるとじゃと言うて話したことでした。
神の大恩が分かれば子孫も続き、身代も出来年まさり、代まさりのおかげが受けられると仰る。神の大恩が分かれば天地の大恩が分かれば、そこで有難くなかっても言うならば、有難くないか拝みさえすりゃ有難くなると言う事じゃないけれども。一生懸命拝みなさいと。私が三時半にこの石庭の廊下に出て天地を拝ましてもらう。だから拝むと言う所から、拝むと言う所からです。
段々拝まれておる自分と言う事に、気が付いて来る様になる。神様でもです一生懸命どうぞどうぞと言うて、お願いをさせて頂いておる内にです、拝みよる内に神様の願いが聞こえて来る様になる。先程末永先生がお話をしておりましたが、最近はあの今日の先生がお話のあの実感の、まぁ本当に言ったんだろうと思われる位に、何と言うですか心が開けてきよる。それこそもう今のまま、末永先生があの心の状態が育っていくならばもう何時どこに布教に出しても、人は助かると私は確信するです。
いうならば私が安心して、布教に出せれると言う程しのものは、どこかというとその一切を自分の心に持ってきておるからなのです。しかもその心では最近思うておる事は、お役に立ちたい立ちたいの一念を燃やしておると言う事なんです。私はねもうこの事だけは、誰にもまぁだ例えばここではお徳を受けるお話を一杯する。教祖の御教えが全部お徳を受ける為の御教えとも言うても良いね。けれどもぎりぎり言うなら御神徳というもの。ものの徳金の徳健康の徳。
様々徳もあろうけれども、何と言うても御神徳を受ける事じゃ。神様のご信用を受ける事だ。これにはねこれは私はまぁだ、合楽の誰にも話とらんばってんね、丁度何かで旅行行った時に、末永さんにそれを私が伝授したわけです。と言うて皆さんにもこうして、このなんかの時にも話したけれども、今日もまた聞いて頂いとる訳です。御神徳を頂くと言うこれはもう絶対のものはね、神様の手になりたい足になりたいと言う願い。本当に神願成就の働き、神願成就のお役に立ちたいと言う一念を燃やす事なんだ。
この一念を燃やすならばです。もう必ず御神徳が受けられるばいと。神様の言うならばお役に立ちたい。それをほんなら例えばほんなら、皆さんにです始めから神様の御用にさえ立ちゃ、神様のお役にさえ立ちゃ神願成就の為の言うなら、手にも足にもならせて頂こうと言う事を願わなければ、おかげが受けられんと言った様な風に言うたって、そげん神様の願いもじゃろうばってん、こっちん願いを先に聞いて貰わにゃという人が多いだろう。だから言わんけれどもね。
実際は末永さん、神様の言うならば、神願に応えられる私にならせて貰うと言う事。それは、今の金光様が、自分の庭先を掃わかせて頂くでも、世界の一部が清まってるんだと教えておられます。だから神様の願いが成就すると言う事は、人間氏子が助かると言うことなんだから、私自身が助かって、私の隣の人も助かると言う様な働きと言う事なんですけれども。それには先ずは、これが助からなければ出来んのです。
自分方はもうこう、いっぱい散らかしておって、他所ん前だけばっかり、綺麗にしてやったっちゃ人は着いちゃこん。自分の前から、隣へこう広げて清めていくと言う生き方にならなければ。先ずは自分が助からなければいけない。そこで自分が助かることのためにです。様々な工夫が要るのだと言う事です。自分がおかげを受けて、それを丁寧に人へ伝えていくのが神へのお礼。それが神になるのぞとまで教えておられる。先ず自分自身が助かって、その助かってある体験を、に伝えていくと言う信心。
いうなら教祖様の、人が助かる事さえ出来ればという事。そのお役に例えば、成就することの為に念願、そこで例えばほんなら、今日末永先生が言ってますように。本当にもう、最近もう寝ても明けても思わせて頂く事は、お役に立ちたいと言う事であるけれども、それには、先ず力無しには神様は、使うて下さらんのだ。先私がおかげを頂かなければ、いうならば人が助かると言う事は、先ず自分自身が助かると言う事。
月は無常と言うけれど、主さんは何とかより、まだ無常という様な歌が流行りました、昔。いうならばです。あの人はまぁ無情だとか、あの人が分からんとかと言っておる間は、まだまだ、自分自身が無情である事実をひとつ、悟らせてもらって、本当にお月様が無常ではない。有難いお月様であると分からせて頂けれるおかげ。さっきからも申しますように、本当に悲しい時にはお月様まで、泣きござるようにある。腹が立つ時にはもう普通なら、喜ばねばならないことを言われても、それが無性に腹が立つ。
問題はこちらが中心、こちらが芯である。私は自分自身が助かると言う事にです、言うならば、昨日の月末御礼の時に、若先生がお話をしたと言うて、末永さんが話をしておりましたがです。自分の心の確認と言う事が、何時もなされておかなければいけない。これでは、おかげが受けられんと分かったら、おかげの受けられる心の状態になることに精進させてもらう。それももう絶えず、それに取り組んでおると言う事です。
最近成り行きを大切にさせて貰う、御事柄として受けると言う事の、再検討が言われております。本当に再検討してみると、ただそれを言うておるだけで、実際にそれを一つも大事にしていなかったり、拝んでなかったりしておる事に、もう改めて気が付かせてもらう。私は甘木の初代の一番素晴らしい、あぁいう体得を受けて、あぁいう沢山の人が助かる様になったと言う、その根本は先生の場合、もう天地の御恩徳と言うものが、誰よりも広く深く分かっておられたと思うのです。
天地の親神様の、いわゆる御恩徳と言うものがです、木の葉一枚枯れ枝一本の上にも、神様の御神徳を、ありありと感じなさった。だからこそそれを押し頂いて頂かれた。私共はあぁして蹴散らかしておるぐらいなこっじゃないだろうか。これではやはりおかげは受けられんと思うのです。それこそ反古紙一枚の上にでもです、それはその沢山なまぁその貯めといて、こうと言う事じゃないですけれども精神です。
それは私どんのほうでも、沢山な紙はもう償却舞前にされておりますけれども、御結界に集まってくる例えば用紙なんかというものは、御神米の他所から来る袋でも、私はちゃんと取っております。それをいわば大事にさせて頂く。それを拝まなければおられない。そこに言うならばね、そういう反古紙一枚のなかにこもっておるところの御神徳を感じなさった。だから押し頂いてそれを頂かれた。ほんな些細な事。こんな事柄と思う事をです、合楽の方達はそれを、御事柄として受ける。
その些細な事のなかに、深い深いご深慮があったことに気付かせていただく例があるように、そんためにはです、一つ訳は分からんなりにも、拝まなければいけない、天地の大恩を聞かせて頂いたなら、本当に天地を拝む一つ稽古をせにゃいけん。自分の気分の良か時だけではない。それをほんなら一日のうちの、例えば十分でも良いから、天地を拝ませてもらいよるうちにです。天地の言うならば何かこれは言葉に、私はその表現できませんけれども、まぁ言うならばエレキのようなものじゃなかろうか。
電気のようなものではなかろうか。そう言う様なものをね、合掌しておる、ここから感ずるんです指先から。五体全体で感ずることがある。ですから拝むと言う事が大事なんだ。拝むと言う事は、大切にすると言う事なんです。甘木の親先生が、枯れ葉枯れ枝一枚のなかにも、御神徳の道、言っておられるものを感じておられるからこそ、押し頂かれた。信心の稽古をしとる者が、何ち言うことかと言うて、お粗末にしよることを、ただ始末倹約をせろと言う事ではない。
そのなかに込められておる、神様の御神徳を拝ませてもらうのであり、大事にするのである。こういうものまで、大事にすると言うことになってくる時、神様のご信用がつかん筈はない。そういう意味においてです。いよいよ天地の大恩、天地の御恩徳と言うものを、誰よりも深く広く感得しておられた。自分の心言うな五体で、それ感じ取っておられた。だからあぁいう沢山な人が助かる事になったんだと思うのです。それでほんなら甘木の先生あたりの様な信心をです。
私共がほんなら頂く事は出来ないけれども。ほんなら枯れ葉枯れ枝一枚でも、拝まれておったというそれをです。一つ拝んでみるのです。そらもう拝まなければならないものが、家の中に沢山あります。もう私はこの頃風邪引いとりますから、夜中にもう一番最後にお風呂に入るんですけれども、もう石鹸なんかが無い無いと言うのに、その始末倹約せにゃんと言う訳ではないけれどもね。もうこうしてべったっと置いとるから、ちょっとあけると下がもう、じゅるじゅるになってしもうとる。
もうこれをちょっと水を切ってから、こういう風に置いとったら、水は切れてあくる日使うときには、気持ちが良くなっとるとじゃろばってんと思う様な事がある。もう本当に、夜中に一遍どおり、必ず私が回ると、どこか電気を消し忘れとる。始末倹約して回るわけじゃないけれども、そこに神様の御恩徳を分からせて頂く様になる稽古のためにも、私は始末倹約をしなければいけないと思う。
天地を拝ませてもらうところから、天地から拝まれておるのだろうと思われるようなものを、これに感じれれるところに、天地の御恩徳が分かる、御恩徳が分かれば、それに報い奉る心が生れてくると言う事になる。だからそれに対して、報い祀る心と報い祀りたい、お役に立ちたい立ちたいと言う一念をです。それを燃やさせて頂くと言う事が、二つが一つにならかけりゃいけん。お役に立ちたいお役に立ちたい。そんならばです神の大恩が分かるから、神様への神恩報謝の生活が出来るのです。
拝む生活が出来る、押し頂く生活が出来るのです。だからいよいよ押し頂かれ、拝まれる私になっていくと言う事になるのです。だから話を聞いて分かっただけでなく、実際に、それを、お互いが、実行させてもらうところからです。天地の大恩も分かるだろう、または、神の大恩も分かるだろう、又は御事柄と、何故御の字をつけなければならないか、成り行きを、何故大事にしなければならないかと言う事も分かってくる。分かってくるから、そうしなければおられない。
そこから生れてくるところの喜び、これは私は動かない喜びだと思う。動かないと言うが、そういう心の状態を、何時も自分の心のなかに、頂いてこれを汚してはならぬ、けがしてはならぬ。けれどもやはり一日を振り返ってみると、やはり毎日お風呂に入って、毎日、垢が出るように、やはり汚れておるところを、お詫びをしてすきっとして、休ませて頂くと言った様な日々を繰り返させてもらうと言う事がです。もうとりもなおさず、信心生活だと思うのです。
どうぞ天地の大恩が分かる。天地の親神様のお心が分かる。ために私共は本気で一つ、拝む稽古を、改めてさせて貰わなければいけない。そこからここはもう理屈ではない。拝まれておる自分というようなです。まぁいうならば黎明不可思議な神様の働きを、そこに、心に受け止めることが出来る。拝むことをしっかり一つ身に着けさせてもらう、勿論、自分の心というものを、いうなら確認しながら、おかげを頂かせてもらわなければならない。自分の心が愉快でない。自分の心が腹立たしい。心が暗い。
そういう時にはです。自分自身のいわゆる、天地日月の心になる精進がなされてない時、相手が小さいのではない、自分自身が小さいんだと、分からせて貰う時にそこにはもう、相手とのなんとも言えん良い交流が生れてくる。いよいよ有難いいうなら、すんなりとした優雅な心というか、そういう心を一つ頂かせて貰う稽古を本気でさせて貰う。成り行きを尊ぶ、御事柄として頂くと言う事を、再検討すると言う事はです。今日は私が申しましたようなところから。
先ずは一つ拝むと言う所から、まぁ一遍やり直さなければいけないのだと言う風に思います。どうぞよろしくお願い致します。三日は親教会の教祖大祭、併せて教祖九十年の記念の式典がございます。時間は何時ものように十時半でございます。今善導寺久保山さんがおられませんので、あの原さんところで一緒にどうぞ、原さんお願い致します。あのあそこで一緒になって、おかげを頂きたいと思います。それからお初穂を託けられる方は、あのお参りが出来なくて、方はどうぞ事務所へ出して頂く様にお願い致します。
どうぞよろしゅうに。